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オフィスこーもと

3連複当てたい競馬初心者(ミュージシャン)のブログです

『期待しない』修行 ~信じていたのに裏切られた!が減りました~

現在、私は『他人に期待しない』の修行中です。その甲斐あってか随分怒りゲージが溜まるのが遅くなったし、苛立った時には「やれやれ、また期待してしまったのか、私は」と納得できるようになってきました。

と言っても、まだまだ変りきることができておりませんけどね。

そもそも修行しようと思ったキッカケは、主人の人に「いつも同じようなことで失敗するよね」と指摘されたことから。最初は、その話にも聞く耳を持てず「私は、主人の人みたいに器用でもないし、こういう風にしかできない、そもそも失敗じゃないから、周りは喜んでいた(はず)だから」と反論する始末。そう、成長する気がまるでない上に自分のせいかもしれないと分かっていてもそれを認めようとしなかった。で、どんな時に自分が躓いたり腹を立てているのかを考えた。というか、主人の人は、毎回、同じようなことで失敗している私を見ていても愛想をつかすことなく、そこに居続けられるのは何故ですか、と聞いてみた。

「(私の行動に)期待していない、(私がやっていることに対して)興味がないからだよ」

うーん。

そんなことを言われると、妙に淋しい気分にもなったが、よく考えてみれば納得できることばかりでした。もう結構前の話ですけどね。

期待をしない・・・

例えば、バンド練習で毎回30分以上スタジオに遅刻してくる人がいる。それに腹を立てている自分がいるとしよう。そりゃあね、スタジオに入るのって、お金を払って借りているわけですからね。みんなで演奏し合わせるために貴重な時間を割いていると思うとね。ロスタイムが多いとお金を溝に捨てているのと同じになってしまいますよというね。だけどそれは、遅刻をしないことが自分の中では普通というか常識だからであって、相手が遅刻してこないことを勝手に期待しているからなんだよね。

自分が普通はそうだから、常識的にはそうだから、と思っていることも実は”あくまで自分の中では”なんだよね。10人中9人がその意見に同意したとしても、それは成立するんじゃないかな~と。逆に、普通は遅刻するものだ、という前提だったらどうだろう。自分は早く来たいから勝手に時間通りに来ているだけだということになり、腹を立てること自体がオカシイことになってくるのではないか。主人の人は既にこれを体得しているから、私と喧嘩をせずにすんでいるんですね、わかります(笑)

そういった具合に、余裕がある時は、自分やら世間の常識を少しずつ考えなおしてみることを始めた。

 

そして、時は流れ・・・

幸本さやの、ストレスが5下がった。熱血が3下がった。

熱血が下がったというのは、「信じていたのに裏切られた」と憤慨している人を見ても安易に同調することがかなり困難になったとかそういう意味です。以前なら多分一緒になって「ソイツ許せないな~」と意気投合していただろうに。状況の辛さ、気持ちを分かってほしいんだろうなと思いつつも、分かるんだけど大げさじゃなね、期待していた通りにならなかっただけじゃね、てか、信じるという言葉を使うことによって相手に対し、勝手にプラス補正をかけていただけでないかい?とか、信じるということは、裏切られてもソレを受け入れるのが本当の意味で相手を信じたということになるんじゃないかなとか、そんな風に考えるようになってしまった。勘違いされそうだけど、私は信じることが出来なくなったというよりは、信じる信じないが行動の判断基準でなくなってきたんだと思う。

なんだか冷たいね、私。もしかしたら間違った方向に成長してしまったのかしら。

けど、もう元の自分には戻れないだろうな~。それが私の常識になりつつあるのだから。